番外編「ネパール地震」2015年5月14日

In 801プロジェクト通信 ネパール「バグマティ川再生 でこぼこ通信」 by master


目次

1. ネパールの休日を襲った地震
2. 72時間 ~4月26日(日)から4月28日(火)~
3. そして3日ぶりの自宅
4. その後の動き
5. 最後に

1. ネパールの休日を襲った地震

2015年4月25日(土)午前

私はキッチンのダイニングテーブルで仕事用のパソコンに向かい、プロジェクト通信を執筆中であった。「明日は友達と自転車に乗って遠出する約束があるから、今日中に、絶対、絶対仕事を終わらせるぞー!!」と遊びの計画を人参のように前にぶら下げ、自身に発破をかける私。
そして
―午前11時56分。
ガタガタガタガタガタガタッ。
台所に置いてある食器からテーブル、窓も小刻みに音を立てて揺れ始めた。
「あら。・・・・地震!!!?」
咄嗟に呼吸を止め、体を静止させ、揺れの大きさと長さを感じ取ろうとする私。
地震の揺れは大きくなる一方で収まる気配がない。
「これまずいっ!」
台所の勝手口からスリッパのまま鍵もかけずに飛び出した。
庭を抜けてぐるりと小走りで玄関口まで出てくると、2階に住む大家さんが玄関の鉄の扉を開錠しながら、
「ビシャールッ!ビシャールッ!ビシャールッ!」
一緒に住む10歳の親戚の男の子の名前を大声で叫ぶ。
大家さんが開錠する間、私は敷地の外に出られない。
視界に見える木が、緑が、家が、全体的に「ゴゴゴゴゴッ」と音を立てて揺れ続ける。
「大家さん、ビシャールを探しに家の中に入らなくていいのかな」と、考える余裕が一瞬生まれたその時、ビシャールが外に飛び出してきた。

1995年の阪神・淡路大震災の記憶が脳裏に蘇る。
「カズーッ カズーッ」と当時10歳だった弟の名前を呼びながら、寝ている弟のもとへ駆けつける父親の足音とその声と記憶とが瞬時に重なった。

この間恐らく1分程度。
ビシャールが飛び出し、家も崩れる気配がなく、揺れもこれ以上大きくならなさそう…とやや余裕が出た私は、スリッパのまま飛び出した勝手口に小走りで戻り、中から鍵をかけ、ジャラジャラした鍵一式と携帯をつかみ、正面玄関でサンダルに履き替え再度外に飛び出した。

こんな時でも、地震の空き家の盗難を心配した私。
飛び出した家の数メートル先にある空き地には、バラバラとヒトが集まってくるところだった。お天気はよかった。視界に入る周辺の家が崩れる様子はない。地面が立て続けに揺れては止まり、そのたびに空き地に集まる人の数が増える。
揺れと揺れの間隔が段々長くなってきたころ、「さて、これからどうしよう」という考えが頭に浮かぶ。レンガでできた家が崩れでもしたら、と想像すると、家に戻り最低限必要なあれやこれやを取りに行かねば…という考えが頭を支配した。

写真1

まずは、薄着のズボンを履き替えたい。
若干の曇り空で雨が降ってくるかもしれないことを考えると服を着込みたい。肌寒い。
いつ安全に家に戻れるかもわからず、一晩を野外で過ごす可能性を考えるとジーパンに履き替えたかった。パーカーを着込み、念のためのダウンジャケットを布の手提げ袋にいれ、お財布と、沢山の現金と、パスポートを鞄に突っ込んだ。喉も乾いてきた。

揺れの収まりを見計り、空き地と家の間を何往復もしながら、着替え、物を集め、揺れが戻ればまたすぐに外に飛び出す。
机の上の仕事用パソコンが、揺れた衝撃で床に落とされたら困る!と、パソコンを閉じて寝室の床へと避難させようと移動するところへ襲う揺れ。また外に駆け出す。
空き地で揺れの収まりを待っていると、足が勝手に震えていたことに気がついた。
笑うしかない。家も崩れていないし、家にものを取りに何度も何度も戻る余裕がある自分の膝はガクガクと震えていた。
「あぁ、自分は怖いのかもしれない」と初めてその時気がついた。

―午後12時2分
地震発生から8分後。漸く誰かに電話をしなければと気がついた。
家から徒歩3分の小高い丘に住む上司に電話を試みるが、電話のネットワークが不通で繋がらない。SMSを送ってみても送信できない。
家と空き地を往復しながら、何度か電話を試みるが不通のまま。

―午後12時21分
地震発生から25分後。
JICAネパール事務所のNGO担当のKさんから携帯に連絡が入った。
日本人からの安否確認の電話で、Kさんの声が聞けてホッとした。思わず、「今、こんな時、何をとりにいったらいいんですか?」と質問攻めをする。安否確認の電話中であることに気がつき、長電話は仕事の邪魔になると思い、Kさんとの電話を切った。

―午後1時半
放置していたiPadの存在を思い出し、恐る恐る家の中に取りに戻った。
ダイニングテーブルから床に落下し一筋のヒビが入ったiPadを救出し、幸いにも生きていたネットを使い、ラインで日本に電話した。大きめの余震も続いたままだ。

地震発生から4時間、家と外をうろうろしながら、さてこれからどうなるのだろうと思っていた。この時まだ地震被害の大きさを把握しておらず、周りの家も損壊してはいなかったが、余震が怖くて、どうしていいかわからない。

LINEで連絡を受けた私のパートナーから(日本在住)、ネットで流れるネパール地震の情報について教えてもらう。4時間も中と外を行ったり来たり、余震が来るや否や外に飛び出せる態勢保持と緊張から疲労が出始めた。彼からの強い勧めで、歩いて20分弱のところにある五つ星ホテル「ハイアットリージェンシー」に一時避難することを決めた。本当はこんな状態の家の中でパッキングをし、余震に怯えながら舗装されていない凸凹した狭い道を歩くことにとても躊躇したが、既にネットで一泊分の予約をしてくれたこともひと押しとなり、素直に指示に従った。ハイアットホテルならゆっくりリラックスして寝られるかもという期待を持ってホテルに向かった。

奇跡的に携帯で一度連絡のとれた上司が、ハイアットに一時避難していたこともあり、私もそこで合流することができた。
「五つ星ホテルのハイアットに泊まれるなんて超ラッキー!ホテルの部屋でプロジェクト通信の執筆をやって、ふかふかベッドでぐっすり寝て朝食は美味しいハイアット飯!やったー。」なんて呑気に思っていた私を迎え入れた現実は、ハイアットホテルの崩れた外壁(簡易なコンクリ塀)と、敷地内のテニスコートやその周辺でごった返すネパール人と観光客の避難民であった。

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写真4 写真5

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結局その日は誰ひとりとしてホテルの部屋に入れてもらえず、チェックインも受け付けてもらえず、ホテルは混乱していた。整備された芝生の上に日本人がかたまって野宿することになった。ホテルのロビーで休む宿泊客もいたが、上空に何もない野外の方が安全だろうということで日の暮れた午後8時過ぎには芝生の上で横になっていた。一人じゃなかったことが心強かった。

写真7

バサバサバサバサーッ  カーッ カーッ カーッッッッ
芝生とテニスコート周辺に植えられた木にとまって休んでいた鳥やカラスたちが、余震を感じる度に木から離れて上空を旋回する。幾度となくその暴れる鳥たちの泣き声と羽ばたく音で目が覚めた。そして大きな余震も容赦なく起こしてくる。眠りにつけない。
そして明け方頃、上司に借りた寝袋で寝ていた私の頬に小さな雨粒を感じた。
「雨が降ってきた。まずいね」
仕事をするつもりで持ってきたパソコンや手帳、その他貴重品と水等が入った荷物を抱えながら、ハイアットホテルの車寄せエントランスの軒下まで移動し、日が昇るまで屋根の下で横たわった。

写真8

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2. 72時間 ~4月26日(日)から4月28日(火)~

翌朝。
ハイアットの部屋での宿泊と、翌朝のリッチな朝食を想定してなーんの食料も持っていなかった私。上司が準備していたパンとチーズの朝食にあずかり、よく眠れなかった頭に糖分が行き渡った。そして少し目が覚めた。周りにも前夜の雨をしのいで寝ている人たちが沢山いた。

この日もホテルは安全確保を理由に、誰ひとりして室内に戻ることを許可しなかった。
昨夕から明け方まで続く余震の中、今しばらくはハイアットホテルの敷地内に避難したほうがよかろうという判断のもと、引き続きホテルの軒先にて野宿をさせてもらうこととなった。結局、地震が起こった土曜日から火曜日のお昼までの3日間(72時間)、ホテル1階ロビーにある化粧室を使わせてもらった時と、時計がわりに使っていた携帯の充電時以外は、基本的にホテルの敷地内の外で、ぼ~っとして時間を過ごす他はなかった。本震の翌日に襲ったマグニチュード6レベルの余震には、皆恐れをなして我先にと広場に逃げ、もつれる足に転ぶ大人もいれば、小さな子供が転ばないように手を握りながら小走りで走る人たちもいた。いつ来るかわからない余震に備え、いつでも猛ダッシュで安全な広場へかけ出せるように、荷物はまとめられ、ぼ~っとしながらもスタンバイした態勢のまま72時間が経過した。

通信系機器(携帯、パソコン、iPad)は、地震の影響でネットワークがダウンしていたため情報収集としては使い物にならず、被災地にて情報に飢えていた。FMラジオも機能していなかったようだし、携帯に情報が流れてくることもなかった。唯一の情報源は朝方ホテルで無料配布してくれた英字新聞だ。新聞に掲載された写真で、今回の地震による被害は甚大で多くの犠牲者を出していることを知らされた。そして精神的には厳しい環境にあったものの、ハイアットホテルに避難させてもらえているだけで、自分たちが如何に幸運で恵まれた環境にあるかということを思い知らされたのだった。いつまで続くか、いつやってくるかわからない余震に不安を覚えながら、温かい炊き出しを1日3食提供してくれたハイアットホテルスタッフからの支援に、ただただ頼るしか為すすべがなかった。もちろん、ホテルスタッフも全員が被災者であるのに関わらず、である。「化粧室にいる間に大きな余震に襲われたらどうしよう、室内に閉じ込められたら終わりだ」と、行くたびに恐れたが、幸いその時に限って余震に見舞われる事はなかったので、これまたついていた。野宿2日目の午前中、ソムニードネパールスタッフのディベンドラが、一向に連絡のつかない私たちを心配し、ホテルにまで探しにきてくれた。お陰で、彼の携帯から繋がったムラのミライインド事務所スタッフと連絡がとれ、ネパール事務所スタッフは全員無事であることを伝えることができたのであった。

余震からちょうど72時間が経過した28日のお昼前。
漸くハイアットホテルから自宅に戻って様子をみようという判断がくだされた。

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3. そして3日ぶりの自宅

奇跡的に何も壊れていなかった。ワイングラスの一本すら割れていない。
地下水を汲み上げ貯めておくタンクとパイプがずれてしまい、台所などの生活用水が使えなくなってしまったという点を除いては、驚く程被害がない。幸いにも3階半建ての築10年の家の壁にはヒビもみあたらない。2階と3階に住む大家さんは玄関先ポーチの下で3日間寝ていたらしい。

いつも来てくれるシャルミラさんが助けにきてくれた。彼女にお願いして、玄関の真横にあるリビングルームで寝られるようセットアップを手伝ってもらった。そして3日間の野宿明けでやや疲れていたが、次に来るかもしれない、脱出しなければならない状況に備えて、避難用バッグを準備することにした。準備が終わるまでは、まだ、寝られない。

仕事用パソコンは緊急バッグにいれないことにした。貴重品袋にはパスポートと現金、鍵、マスク、電化製品の充電機器、メガネ、懐中電灯等を、そして大きめのリュックには靴下等の若干の衣類、ハミガキセット、メガネ・コンタクト等、薬、櫛、パーカー、サンダルを詰め込んだ。そしてビスケットなど空腹を満たしてくれるドライフードも詰め込んだ。

夕方、あまりにも疲れていたため、いつでも外に飛び出せるようにと服をきた状態で3日ぶりに布団の中で寝た。生活用水が使えず不便ではあったものの、配電時間がいつも以上に長く、またインターネットもダウンしていなかったことは有難かった。3日ぶりにログインできたフェイスブックやメールには日本からの家族・友人、そして沢山の仕事関係者を含め、世界中からの友人からの安否を確認するメッセージが送られてきていた。そして漸く自分のパソコンから、今回の地震が残した被害の大きさを写真で知ることができた。私が住むボーダナートエリアとはまるで別世界だなと感じた。

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4. その後の動き

震災3日後の4月28日(火)に自宅に戻った頃、SOMNEED NEPALのネパール人スタッフたちも大変な状況にあった。家族や家は幸い無事であったものの、親戚や知り合いに犠牲者が出たため、火葬の場に参加したり、安否確認に奔走した3日であったという。家族など身近な存在の人たちの無事と安全が確認できた頃、彼の地元で親戚が住むマカワンプール郡の大変な状況が伝わってきた。

4月27日(月)には、今回の地震に対し、ムラのミライはネパールの人々による救援・復興活動への側面支援をおこなうことを決めた。その日のうちにムラのミライウェブサイトに「ネパール地震:緊急救援募金」ページを立ち上げ、募金活動が開始された。
そして、翌日4月28日(火)には第一弾の具体的な活動内容が決定された。ムラのミライとソムニード・ネパールが活動しているデシェ村、そして過去に活動したマクワンプール郡へ救援物資を運ぶことにした。

デシェ村では死者はなかったものの、古い家並みの多くが全壊・半壊。50軒以上が全壊。地震後に一度だけネパール軍が被害の合った家屋数を調査に来て、3日~4日分の食料供給があった。飲料水と(屋外での避難生活用の)ビニールシートが不足していた。
カトマンズから車で4~5時間のマクワンプール郡では、ネパール軍の施設にはテント用シートが少数しか備蓄されておらず、配布できない状態。地震発生から5日経った時点で支援物資が全く届いておらず、住民は政府に対する怒りを口にしていた。

その後のムラのミライ、ソムニード・ネパールスタッフの活動の様子は、ムラのミライのフェイスブックページとホームページ上でお伝えしてきた通りである。
ディベンドラを中心に、ネパール人スタッフたちが村から村へと歩き、何が必要かを見極め、必要なものを時にはインドまで足を運んでかき集めた。そうしてかき集めた雨除けのビニールシートや毛布・水を、村の若者たちに協力してもらいながら配布した。

ムラのミライ フェイスブックページ https://www.facebook.com/MuranoMirai

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ムラのミライ ホームページ http://muranomirai.org/pnref=nepaleq2

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5. 最後に

1995年の阪神・淡路大震災を経験してから2度目の大きな地震を経験することになった。どちらの地震も大した被害を受けず、幸いにも生かされた命であることを強く感じた。震災後4日目にはネットから現地情報を発信できるほど、お陰さまで元気にしている。そしてカトマンズからの状況レポートと緊急救援募金の呼びかけにいち早く対応してくださった日本と海外在住の皆様から、心のこもった支援金が続々と届けられた。楽しいGW中に関わらず街頭で声を張り上げての募金活動をしてくださった方々から、小さな胸をいためながら貯金箱を差し出してくれたお子さんから、そして、無事であった私たちのことも気遣うメッセージとともに沢山の方々から募金をお預かりした。そしてその緊急救援金は、上記のとおり、政府の手が行き渡っていない被災者にテントやブランケットという物資の形で届けられている。改めて皆様に御礼を申し上げたい。

続く余震が来るたびに動悸に襲われるものの、余震もここまでくると慣れてしまう。就寝中の余震でもベッドから立ちあがらずに済むようになった。もちろん、大きい余震が来てもすぐ対応できるように緊急バッグはスタンバイしている。上空の救援隊と思われるヘリコプターが飛び交う音と、振動で揺れる窓の音には嫌気がさすが、それはもう日にち薬しかないということだそうなので、気長につきあっていこうと思う。改めて、生かされた命を精一杯生き、自分のために、そして世の中のひと、自然、国のためになる活動を続けたい。

ムラのミライ ネパール事務所 池崎翔子

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